インドネシアと聞くと、イスラム教徒が多数を占める国というイメージを持つ人が多いでしょう。一方で、実際の社会には売春・性風俗産業が存在し、歴史的にも植民地時代から性産業が形成されてきました。さらに、女性性器切除(FGM/C)も一部で行われています。では、なぜ「イスラム教国なのに」という一見矛盾した現象が生まれるのでしょうか。本記事では、現在の売春人口、オランダ植民地時代、日本占領期、FGMを一つの流れで整理します。
現在のインドネシアに売春婦は何人いるのか?
まず最も知りたいのが、現在の人数でしょう。
インドネシアでは売春そのものが地下化・非公式化しているため、「売春婦は全国で何人」と正確に数えた政府統計はありません。そのため、調査によって数字には幅があります。
比較的信頼できる国際的なデータでは、女性セックスワーカーは約27万人規模と推計されています。UNAIDSの2024年データブックでは、インドネシアについて女性セックスワーカーを約27万1,800人としています。
したがって、「10万人しかいない」というよりは、20万~30万人台という規模で考える方が現実的です。
ただし、これはあくまで把握・推計された女性セックスワーカーです。オンライン、個人営業、観光地などに分散した人まで完全に把握できているわけではありません。
逆に、「現在100万人いる」と断定できる公的根拠もありません。
つまり、
10万人説 → 少なすぎる可能性がある
27万人前後 → 比較的確かな推計
100万人説 → 現時点では裏付け不足
という整理が妥当です。
戦前のインドネシアにも大規模な性産業があった
現在突然、性産業が生まれたわけではありません。
オランダ領東インド時代には、都市部を中心に売春制度が存在していました。バタヴィア、スラバヤなどの都市では、植民地社会の構造と結びついた性産業が形成されていました。
ここで重要なのは、「慰安婦」と「一般の売春婦」を同じ数字で数えてはいけないということです。
植民地時代の民間売春と、第二次世界大戦中に日本軍の占領下で設けられた慰安所は別の歴史です。
研究では、日本軍が来る以前から、インドネシア社会には女性を妾・売春・性的労働へと組み込む慣行が存在していたことが指摘されています。
そのため、「戦前のインドネシアには100万人の売春婦がいた」という数字を、そのまま事実として紹介するのは危険です。
現在確認できる研究・史料からは、全国の民間売春婦を正確に合計することはできません。
数万人だった可能性を否定することはできないものの、100万人という数字を確定値として扱える史料はありません。
ここは、数字を大きく見せるより「全国総数は不明」とする方が歴史的には正確です。
日本占領期の慰安所は別の問題として考える必要がある
1942年、日本軍がオランダ領東インドを占領すると、既存の植民地社会は大きく変化しました。
日本軍の占領下では、軍人向けの慰安所制度が各地に設けられ、インドネシア人女性もその対象となりました。
ただし、ここでも「インドネシアの売春婦全体」と「日本軍慰安所の女性」を混同してはいけません。
研究上、日本占領期のインドネシアでは、現地女性だけでなく、オランダ系・ユーラシアンなど様々な背景を持つ女性が性的搾取の対象となりました。なかには詐欺や強制によって慰安所に入れられた女性も存在します。
一方で、慰安所の全国的な女性総数については、信頼できる完全な統計が残っていません。
したがって、
「慰安婦は全国で何万人だった」
「現地女性だけで何千人だった」
といった数字を簡単に断定するのは避けるべきです。
戦争史として重要なのは、人数競争ではなく、占領下で女性が軍事的な性搾取のシステムに組み込まれたという事実です。
なぜイスラム教徒が多い国で売春が存在するのか?
ここが最も興味深いところでしょう。
「イスラム教では売春は禁止されているのだから、イスラム教徒が多数派のインドネシアでは売春も少ないはずだ」と考えると、現実との間に大きな差が生まれます。
しかし、宗教上の規範と、現実の社会行動は同じではありません。
インドネシアは世界最大のイスラム教徒人口を持つ国ですが、イスラム教だけを国家制度の中心に置く単純な宗教国家ではありません。
地域によって宗教意識、慣習、経済状況、観光産業、都市化の程度が大きく違います。
特に都市部や観光地では、伝統的な宗教規範と現代的な商業社会が同時に存在しています。
そのため、
「イスラム教徒が多い」=「性的サービスが存在しない」
とはなりません。
これはインドネシアを見るうえで非常に重要なポイントです。
インドネシアのFGMは売春とは別問題だが、社会構造を理解する手掛かりになる
もう一つ意外なのが、女性性器切除(FGM/C)です。
FGMはアフリカだけの風習ではありません。UNICEFによる2024年の世界推計では、FGMを経験した女性・少女は世界で2億3,000万人以上。そのうちアフリカが約1億4,400万人、アジアが8,000万人以上、中東が約600万人とされています。
インドネシアもFGM/Cが行われる国の一つとして、UNICEF・UNFPAの対策対象国に含まれています。
ただし、ここでも「イスラム教だからFGMがある」と単純化することはできません。
FGMは宗教だけでは説明できず、地域の慣習、社会的圧力、結婚、家族、共同体の価値観など複数の要因が関係しています。
実際、FGMはイスラム教徒だけの慣習ではありません。
つまり、
イスラム教
↓
売春が存在する
という単純な因果関係でも、
イスラム教
↓
FGMが存在する
という単純な因果関係でもありません。
宗教、伝統、経済、植民地支配、都市化、観光、家族制度などが複雑に重なっているのです。
「イスラム国家なのに」という見方だけではインドネシアを理解できない
インドネシアを理解するうえで最も重要なのは、「イスラム国だから」という一つの説明にすべてを当てはめないことです。
インドネシアにはイスラム教徒が圧倒的に多い一方、国家の制度、地域社会、民族、宗教慣習、経済環境には大きな多様性があります。
その結果、
・宗教上は禁止される売春が存在する
・都市部では性産業が商業化する
・観光地ではさらに複雑な性産業が生まれる
・歴史的には植民地時代から売春制度が存在した
・日本占領期には軍事的な慰安所制度が加わった
・一部地域ではFGM/Cも続いている
という、一見すると矛盾する現象が同時に存在します。
むしろ、この矛盾こそがインドネシア社会の特徴の一つです。
宗教上の理想と、経済活動や人間の行動は必ずしも一致しません。
まとめ
インドネシアの売春について、まず押さえておきたいのは、現在も大規模な性産業が存在しているということです。
現在の女性セックスワーカーは、国際的な推計では約27万人規模です。100万人という数字を確定値として扱う根拠はありません。
また、戦前のオランダ領東インドにも売春産業が存在しました。しかし、その全国総数を示す確実な統計はなく、「100万人」といった数字を歴史的事実として断定することはできません。
日本占領期には、それとは別に軍慰安所制度が形成され、インドネシア人女性を含む多くの女性が性的搾取に巻き込まれました。
さらに、FGM/Cについてもインドネシアは無関係ではありません。アジア全体では8,000万人以上の女性・少女がFGM/Cを経験したと推計されています。
結局のところ、インドネシアを理解する鍵は「イスラムだから」「イスラムなのに」という二択ではありません。
宗教・伝統・植民地史・貧困・都市化・観光・商業化・家族制度が重なった結果として、現在の社会が形成されている
と考える方が、はるかに実態に近いでしょう。
FAQ
Q1. 現在のインドネシアの売春婦は何人ですか?
A. 正確な全国統計はありませんが、UNAIDSのデータでは女性セックスワーカーは約27万1,800人と推計されています。
Q2. インドネシアはイスラム教国なのに売春があるのですか?
A. あります。ただし、宗教上の規範と実際の社会・経済活動は一致するとは限りません。
Q3. 戦前のインドネシアには100万人の売春婦がいましたか?
A. 100万人という数字を確定できる信頼できる史料は確認できません。全国総数は不明です。
Q4. 日本占領期の慰安婦と一般の売春婦は同じですか?
A. 同じではありません。植民地時代から存在した民間の性産業と、日本占領期の軍慰安所制度は分けて考える必要があります。
Q5. FGMはイスラム教の教義ですか?
A. FGMはイスラム教だけに存在するものではなく、宗教だけでなく地域の慣習や社会構造など複数の要因から説明する必要があります。

