🏯 高麗王朝とモンゴル支配期の歴史・混血事情まとめ
1. 高麗王朝の成立と発展
高麗(こうらい)は918年、王建が高句麗の後継を称して建国し、新羅末期の分裂状態を統一した朝鮮半島の王朝です。935年に新羅、936年に後百済を滅ぼし、朝鮮半島を統一。中国の五代・宋王朝から冊封を受け、中央集権体制や科挙制度を導入し、両班(文班・武班)という支配階級が形成されました。仏教・儒教を取り入れ、金属活字や高麗青磁などの高度な文化も発展しました。
2. 12世紀末〜13世紀初頭:政変と外圧
12世紀末には武臣政権が成立し、崔氏が政権を握りました。北方では女真(後の金)が台頭し、高麗は金に服属して存続を図りますが、国内は混乱します。
3. 13世紀:モンゴル帝国の侵攻と支配
1231年からモンゴル帝国(元)の侵攻が始まり、1260年頃には高麗は実質的な属国となります。1270年の三別抄の乱も鎮圧され、以降約120年にわたり元の強い影響下に置かれました。元は高麗王室とモンゴル皇族の政略結婚を推進し、王族・貴族層にモンゴル系の血統が入ることとなりました。
4. モンゴル支配期の混血事情
■ 混血の主な要因
- 王族・貴族の政略結婚
高麗王や王族がモンゴル皇女と結婚し、その子孫が王位を継ぐ例が続きました。王族や上層貴族にはモンゴル系血統が濃く残ります。 - モンゴル人官僚・軍人の駐在
各地に派遣されたモンゴル人監督官(ダルガチ)や駐屯軍が現地女性と家庭を持つこともありましたが、その規模は限定的でした。 - 「貢女」制度
高麗から元へ多くの女性が「貢女」として献上されましたが、彼女たちの子孫は主に元(中国・モンゴル)で生まれ育ち、高麗国内の混血比率には直接影響しません。
■ 混血の規模と割合
- 全人口に占める割合
当時の高麗人口は約200〜500万人と推定されます。モンゴル人の駐在者・移住者は数千〜数万人規模で、混血児が全人口に占める割合は1%未満、上限でも1〜5%程度と推測されます。大部分は王族・貴族や都市部、駐屯地周辺に集中し、地方農村部ではほとんど混血は発生しませんでした。 - 遺伝子研究の知見
現代韓国人のY染色体などにモンゴル系の遺伝子が微量に見られるものの、全体の1〜5%程度で、これがモンゴル支配期の混血に由来するかは断定できません。
■ 文化的影響
モンゴル支配期には、言語(馬や軍事関連語彙)、食文化(蒸留酒技術)、社会風俗(髪型・服装)など、遺伝的影響よりも文化的影響の方が大きかったとされています。
5. 高麗王朝の衰退と李氏朝鮮への交代
14世紀、元の衰退や倭寇の侵攻、国内の親元派・親明派の対立などで高麗は弱体化。1392年、李成桂が高麗を倒し、李氏朝鮮を建国しました。
6. まとめ
- モンゴル支配期(約120年)に高麗国内で発生した混血児の割合はごく少数(1%未満〜最大でも5%程度)と考えられます。
- 混血は主に王族・貴族や都市部、駐屯地周辺に限定され、農村部ではほとんど見られませんでした。
- 「貢女」制度で高麗の血が元側に流れたものの、高麗国内の混血比率には大きな影響を与えていません。
- 遺伝的影響よりも、モンゴル支配による文化的影響の方が現代に残る痕跡として大きいです。
