遼東半島を拠点とした三国時代の勢力である「公孫氏」(公孫度・公孫康・公孫恭・公孫淵)の墓について、考古学的に確認されているかどうかについて調査しましたが、現時点では以下の通りです。

現在の考古学的状況

• 公孫氏に関する墓の発掘や確認された遺跡について、信頼できる情報源では確認されていません。

• 遼東半島やその周辺地域では、帯方郡や楽浪郡の遺構(城郭や郡治跡など)は確認されているものの、個人の墓(特に公孫氏の墓)に関する発見は報告されていません

 


歴史的背景と文献上の記録

• 公孫氏は後漢末期から三国時代にかけて遼東半島を支配し、帯方郡を設置するなど勢力を拡大しました

• しかし、彼らの墓に関する記録は、正史(『三国志』など)にも明確な記述がなく、考古学的にも確認されていません。

 


結論

 

現時点では、遼東半島における公孫氏の墓について、考古学的に確認された事例は存在しないと考えられます。今後の発掘調査や研究の進展によって、新たな発見がある可能性はありますが、現状では未確認です。

 


ご質問ありがとうございます。帯方郡・楽浪郡・そしてもう一つ(玄菟郡)について、それらが本当に朝鮮半島内にあったのか、それとも現在の遼寧省など中国東北部にあったのかについて、以下に整理してご説明します。


楽浪郡・帯方郡・玄菟郡の設置と位置

• 楽浪郡(Lelang Commandery)

前漢の武帝が紀元前108年に設置した四郡の一つで、現在の平壌付近に置かれたとするのが通説です。考古学的にも多数の漢代の遺跡が発見されており、朝鮮半島内に存在したとする見解が主流です。

• 帯方郡(Daifang Commandery)

後漢末期、公孫康が楽浪郡の南部を分割して設置した郡で、朝鮮半島北部、黄海道(現在の北朝鮮西部)あたりに位置したとされています。

• 玄菟郡(Xuantu Commandery)

前漢時代に設置され、遼東郡の東・楽浪郡の北に隣接する地域に位置しました。郡治は当初「夫租県」、後に高句麗県(現在の吉林省集安市付近)に移され、朝鮮半島北部から中国東北部にまたがる地域に設置されていたと推測されます。


学術的な見解の対立

• 主流学説(韓国・日本・西側諸国)

楽浪郡・帯方郡・玄菟郡は、いずれも朝鮮半島北部に設置されたとする説が主流です。特に楽浪郡は平壌付近にあったとされ、帯方郡も朝鮮半島内に位置していたとされます。

• 遼西説(北朝鮮・一部韓国の非主流派)

一部の研究者は、漢代の史書に基づき、これらの郡が実際には遼東半島や河北省北部など、現在の中国東北部にあったと主張しています。特に楽浪郡については、朝鮮半島ではなく遼西地域にあったとする説が提唱されています。


結論

• 主流の学術見解では、楽浪郡・帯方郡・玄菟郡はいずれも朝鮮半島北部に設置されたとされています。特に楽浪郡と帯方郡は平壌や黄海道周辺に位置し、玄菟郡は朝鮮半島北部から中国東北部にまたがる地域にあったとされます。

• 一部の異説(遼西説)では、これらの郡が中国東北部にあったと主張されていますが、これは主流の学術界では広く受け入れられていません。